【2018.12.09-10】スマイルと柚木は宮城の山元町に初上陸🙂
今回はクラウンスマイルについて投稿ではなく、ふぉんさんに語り部になってもらって山元町地域全体を見ました。
✳静岡の市民クラウンが東日本大震災直後から現在に至るまで、山元町でのボランティア活動の事や山元町地域や原発事故の当時の被害状況等をお話してくださりました。もちろん、現地の方々や他の語り部さんともお話をしながら。
山元町のパンフレットももちろんありますが、そこはあえて見ずに、メモと自身が感じた事を主にづらづらと言語化していきます。
●仮設住宅
現在、ほとんど残ってません。が、当時は急遽建てなければならなかった為、山の空いたスペースばかりにあった。
また、山元町は海にはストロベリーライン🍓。山にはアップルライン🍎。しかし、ストロベリーライン🍓は津波の影響でほぼ壊滅状態。
山元町は坂元地区と山下地区があります。坂元地区は山下地区よりも津波の勢いがあり、甚大な被害に。坂元川は津波が遡って。坂元駅は線路も現在は高架上に作られてます。その下はただただ平地が続くばかりです。
確かに、高台までの距離はかなりある。。。
●震災遺構 中浜小学校
2階部分まで津波が来たが、当時学校にいた生徒はみんな屋根裏に避難し助かったそう。先生の一瞬の判断。しかし、当時は3月11日。屋根裏には特別な準備はしていなかったから、かなり寒かったと。
●普門寺
月1でバラバラになってしまったみんなが集まる。寺は当時、他の家よりもいち早く建て直した。(寺や神社は元々あった場所に再築。)仮設住宅も徐々になくなりつつあるため、寺がコミュニティスペースに。
✳授業でもやったと思うのですが、、😱
日本人が集まるバとして、水辺や神社、寺等があげられます。近代までの寺は、寺子屋などで子供が集まったり、周辺住民の情報交換(共有)。また政治的な意味を含んだ集まる場としても人が集まる、地域のコミュニティセンター的な役割もあったと。
●「過去の津波浸水区域」
当時のまま。散らかった店の中。駐車したままの車。約8年という月日が経った事を草木で生い茂る家が教えてくれる。落ちたままの瓦。道も封鎖されその先にある家には行く事ができない。車もこの区域で止まる事はできない。勿論、歩きもバイクも行けない。
まちは時が止まったままだが、私達は止まることを許されない。
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不自然なまでに平らな大地。違和感。
そこに確かにあったはずの人々の営み、まち。それが突然無くなっちゃうのはこわい。
それでも、山元町のみんなは今を生きてる。
だから、今自分はどう生きるか。
どう毎日を過ごすか。
人から学ぶ事は多いです。
柚木真里奈とスマイルからでした!