【ありのまま認めるとは】
柚木2年の時にNPO・ボランティア論の授業でNPO法人クリエイティブサポートレッツ代表久保田さんがレポートのお題として[ありのまま認めるとは]という問を。
以下それについての柚木2018の考えです。
ありのまま認めるとは
ありのままを認めるとは何かを自分なりに今回、改めて考え直した。大きく2通り、この行為が当てはまるのではないかと考えた。
1ーーーーーーーーーー
ありのままを認めるは、相手の好きな事、嫌いな事をもそのまま認め、否定しない事だと思った。
「そういった考え、見方もあるよね」
ここで否定するという事は、自分の中の価値観やものさしでその人を見ている気がする。
固定概念で個人を自分の考えられる範囲で枠にはめ込んでいこうとしている気がする。
この考えは意識的かもしれないし、無意識的なものかもしれない。
ジェンダー差別が例に挙げることが多いのかもしれない。
しかし、偏見や差別はもっと日常的にこびりついていると思う。自分にとって何気ない一言が実は相手を傷つけている場合だってある。
それは先程も述べたが、無意識・無自覚から来るのだと思う。何故これが生まれてしまうのかを考えたら、自分にとってはそれが当たり前の環境にいたからではないかと思う。
その考え、ことばが自分にとっても当たり前だったから、なぜ人を傷つけたのか、なぜ傷ついているのかも理解できないこともあるのではないかと思う。
無くすことは不可能だと思うし、無くならないと思う。しかし、減らすことは可能だと思う。
2ーーーーーーーーーー
私は大道芸ワールドカップIN静岡のノーマライゼーション推進室の実行委員を今年度から務めている。ノーマライゼーション推進室では大会の時は車椅子の方、盲導犬利用者の方、視覚障害をお持ちの方、聴覚障害をお持ちの方をエスコートする役割がある。また視覚障害を持つ方を対象にアーティストのパフォーマンスをリアルタイムで言葉に表現し伝えるFM実況がある。私はFM実況。
ここで私が分かったこと、初めて知った事、学んだ事は非常に多い。また、私は専門的に学んではいない。
障害を持つ個人も先天性、後天性がある。
また、視覚障害と言っても個人差がある。
障害をひとくくりにはできないという事。
「障害者ではない。障害を持っていても、私達は1個人として見て欲しい。」
個人によって障害のレベルは違うし、そもそも障害の種類が異なるし、同じ障害のくくりになっていても個人個人で異なる。
私がここで共に時間を共有した方々は、視覚障害の方、聴覚障害の方、盲導犬利用者の方、パーキンソン病の方、多発性硬化症の方だ。
ひとりひとり違う。だから、当然ひとりひとりとの接し方だって違ってくる。
これを知っていると知らないとでは自分が住んでいるまちの見え方が全く違ってくると実感した。
また、実際に自分が体験するとでも違ってくる。車椅子に乗ってみたり、アイマスクを付けたまま静岡の街中を歩いてみたり。その体験だけではない。私は昨年、左脚の前十字靭帯を断絶してしまい、靭帯を再建手術した。そして、しばらく入院し、日常では松葉杖の生活を送った。たかが怪我だったが、まちが大学がどれだけ健常者向けであったのを身をもって痛感した。ちょっとした段差や公共交通機関全てが「やっと」登れるぐらいだ。これは健常者であると当たり前だったから絶対に気づかなかった。
私は相互理解が必要ではないのかと思う。確かに、中にはそれは必要ない、迷惑だ。知られたくない。という声もある。その考えも理解はできる。しかし、知らなきゃ分からないし、誰かが教えてくれなければ分からないこともある。
知って、学んだからこそ、私は想像することができるのかもしれない。想像することができれば私にだってできることがあるはず。
そもそもまちは多様な人が行き交う場である。ということは、まちを作っているのは健常者だけではない。日本人だけでもない。しかもひとりひとりが目的も違えば考え方、価値観も違う。
障害をもっている人は目に見える人、見えない人も含めればたくさんいる。
だから、まちを考える時、社会的マイノリティに置かれがちな高齢者、子ども、目に見える、見えない障害を持つ方、外国人にも焦点を当てるべきだと思う。まだここには抜けてる人もたくさんいる。
それは政策とかからではない。
私という1個人のまちを形成する市民からの多様な人とまちを「シェアしている」という意識改革が必要だと思う。
実際に触れてみて分かることもある。
それまではわからない。わからないからこわい。これで終わらす事は簡単だ。これで終わらせたら、そこまでで思考は停止するだろう。
一生怖いで終わる。
ありのままを認めるとは、そもそもこの行為が目の前にいる相手のことを「知ろう」と自分からしない限り、この行為は発生しないのではないか。
目の前の相手の事を「知ろう」とする姿勢は「ありのままを認める」ということのひとつの要素なのではないかと思う。
ありのままを認める事は人によっては難しい事だと思う。自分とは違った考えや価値観を変えられてしまうのは誰だって最初は抵抗があるのだと思う。しかしながら、その変動こそがアートの変動に似ている。だから、アートの力で社会に、まちに、人の心を動かすことができるのではないかと私は考える。アートの持つ力を強く信じている。アートは必ず、弱い立場に置かれてしまう多く人の味方であり、寄り添う。
【FM実況】
視覚に障がいがある方や、混雑でパフォーマンスが見られない方々を対象。🌟視覚の障がいの程度には、全盲の方や弱視、視野狭窄等があると知った。
また、先天性か中と障がいによっても個人差がある。
参考資料によると
「病気や事故などで障がい(中途障がい)の方は、障がいを受けるまでに視覚により獲得した記憶から形や色などをイメージできる。」
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𓀠
𓀋
𓀃
普段は自分は何も不自由なく歩ける。それは''見えている''から。
でも、これが目の見えない、車いす、松葉杖等となると話は違ってくる。
健常者と言われる人にとっては本当に対したことない段差でも後者の方々からすれば全く対した事ではない。
だから、エスコートする側は、何があるのか、この道はどんな道なのかを伝え、何を彼らが必要としていて、何に困っているのか聞き出す。目線は同じ高さ。伝える為には、そこが何なのかをいつもよりも【よく見る】必要がある。
そして、常に状況をコトバにし、情報としてインプット(認知)していく事が求められる。
笑顔でいながらも緊張感があるなと。
さと今年の大道芸も盛り上がっていきましょう!