【2018.07.21.劇的舞踊 Vol.4 Romeo&Juliets ロミオとジュリエットたち】
恋はまるで精神疾患。
私の隣に座った方が呟いたことだが「俳優と同じ目線で見る事ができるのがすごい。迫力があるよね。」と言っていた。確かに。細かな衣装のデザインだったり、俳優の表情だったりがありありと見る事ができた。
<作品>
人間の身体(筋肉)がありありと表現されていた。それは顔の表情だけでなく、体全体を使って表現するため体にも表情がやどっていた。ロミオ役の武石氏の声は低いが迫力があり、場内に響き渡る。また、ロミオが車椅子で出てきたのにも正直驚いたが、金森氏は鈴木忠志氏の影響もあるのかなぁ。。
舞台道具として、ミラーや四角いBOXを活用していた。その中に俳優を閉じ込めたり、はたまた、ミラーを斜めに並べて奥行を表現したり。見る側の創造力を刺激してくるなと思った。また、ミラーに俳優が反射して、舞台から見る側の見方を少しだけだが見る事ができたのでそこにも感動した。また、そういった面から反射して1人が複数に見えたり。見え方の工夫をしてるとも感じた。
見る、見られる。視点が変わる変わる。
衣装も白で統一されており、硬い素材、柔らかい素材があった。柔らかい素材を着ている俳優の背中には番号が書かれていて、監視社会(人を番号によって支配する現代の)を思わせた。
ここの監視からの観点で言えば、舞台上に設置されたテレビ画面の写し方は多角的に俳優を写していたため、監視カメラをに見え、常に自分達の行動が監視されている現代社会に近いものを感じた。そして、うっすらと俳優の身体が垣間見え、鍛えられた肉体が大変美しく感じた。男女によって肉体は違うが、男女それぞれが持つ肉体の特徴が素晴らしいと感じた。また、体が動く度に、照明の光が当たる度に輝くものを身につけていて、それも俳優ひとりひとりデザインが微妙に違った。その中でもロミオは両足全体的にそれを身につけていた。
更に、劇中に登場する黒の布を羽織った死神みたいなものはそこに静かにいるだけであるのに異質感というものを大変強く感じた。
車椅子のロミオにジュリエット達ががわかる変わる車椅子を押すシーンでは自由さだったり爽快感だったりするものを感じた。"立場"とはなんて障害なんだ!とも思いながら笑
舞台で身体的な表現ばかりではなく、幕に映像を用いていた。静止画に最初は見えたがだんだん涙が零れ落ちてきた。
心に残ったセリフは
「恋とはなんて愚かなんだろ。恋と呼べば聞こえはいいが内実はどろどろだ。」
とロミオがひとりごとのように言い捨てたセリフが印象深い。確かに、恋とはある意味いいすぎかもしれないが精神疾患であるな。恋する人のために頑張ることができたり、また、時にはその人の言ったひとことに深くきづついてしまったり。その人を中心に考えているはずが、その人に振り回され、自分を見失ってしまうなんてことも恋愛には多々ある。対象がその人でありながらも自分本位で考えてしまうのも恋かなとも感じた。
と自分の過去を振り返りながら思った。
ん?笑
【静岡大学地域連携プロジェクト型セミナ~〜課題解決型授業の振り返り①】
かなり時間が経ってしまいましたが、、‼️
呉服町名店街、静岡伊勢丹、おまち大學プロジェクトチーム、当日ツアー参加者、関わった全てのみなさま。「え?私?」って思ったそこのあなた!もちろん!あなたもですよ🌻
本当に本当にありがとうございました🤲
絶対にひとりじゃできなかったこと!チームだからできたこと!
ーなぜこうなったのか。今回のプロジェクト全体、新たなおまち大學の提案を知りたい方は、
✅2/19(水)10:00-15:00@伊勢丹のメインエントランス 【Loveしずおか協議会・静岡大学・静岡英和学院大学のPBL合同成果報告会】ポスターセッションを予定してます。
⚠️終了しました!
柚木制作プロジェクト全体最終ポスター🔽
↑当日の様子
嬉しいお言葉たくさんいただきました🥰🌻
まだまだ精進します。🔥
🌳🌳🦖🌳🦖🌳🦖🌳🌳🌳🌳🦖🌳🌳🌳🌳🌳🦖
〈ここから柚木の振り返り〉
企画の前段階の柚木はどこか他人事で。
話し合い、自分の考えを言葉にして伝えるって難しいし苦手だなぁとか。(でもそこにツールがあれば言葉に少しはできるな自分)
口数が多い方がいいとどこかで強迫的に思ってたのです。でも、必ずしもそういう事ではないんだと。相手の話にちゃんと耳を傾けて。いったん認めて。自分が思った事、考えがある時に、そこで自分の言葉で意見を伝えればいいんじゃないかと。伝えるべき時に伝える。
聞く大切さ。
言葉にする大切さ。
それは言葉数が多いから声が大きいから正解とかじゃないんだなぁと。
でも"みんな"で企画すると陳腐でありきたりになるのはどうしてだろう笑
✅広報を主に担当。
(役割があるって大事だな〜)
いつもの自主企画以上に必死さと焦りがありまして。広報するにも日程的に全く時間がない。
ピョンパパパパ🏌🏻♂️発信したくても、核となる企画の具体案もまだまだ不確定。どうしたらいいのか。このままじゃあかんやかんおかん。。
またプロジェクトへの熱量と愛が不足しているのは自分ゴトになってないからなんじゃないか。だったら良い意味で自分を騙せばいいんじゃないかと笑
さらにどれだけ、このプロジェクトを面白く、ワクワクしたように魅せるか。演出するか。
"フォトコン"はどこでもやってるしなぁ笑
でもそのシステムは別展開できるはずだと🤸🏻
さらにさらに
チーム名すら決まってない、、、!🙄
だったら、チーム名さえコンセプト化して、このプロジェクトの価値を生み出してもありなんじゃないかな。(なかば強引に進めちゃいつつ🦖☀️)
そこでまず時間を割いたことは、
逆算。調整。把握。共有。
ずっと私ができること、貢献できることはなんだ、、と悩み😔☁️あ!💡これまで自分があれやこれやと経験し、学び、いつの間にか(?)身に付いていた視点と未熟なデザインがあるじゃないか。普段考えてる事、pom pom思いつくアイデアをMIX。
今の自分をフル活用し出せるもの全部出して立ち向かいました🔥📣🌻
🟨チラシデザイン🟨
ツアー素材、内容もまだ不確定。この一連の流れをどうすれば伝わるのか。
そうだ💡デザゼミの先生が教えてくれた不得意なインフォグラフィックだ💡柚木テイストを残しつつ削ぎ落としつつ。まだまだデザインはまだまだだ、、🤦🏻♂️
でもできなかった事が作成すればするほどできてくることが実感できて。
↑これは当日参加者のネームカード
最近は面白くなってきちゃってます。
ブラッシュアップしてくやり取りの嵐🌀はめんどくさいけど好きなんです笑笑
🟧露出🟧
かなり短期間でできるだけ多くの人の目に触れる機会を。そのうちの価値観が似た人の心を動かし行きたい!に繋げる為には。
ーどうしたらいいのか。
まずは、逆算スケジュール🗓と戦略を勝手に練り練りする事に時間をかけました。
・解像度が低いコトはどんどん解像度を上げる為に、形に興し、足りない部分と必要になるであろう事を見える化。
・共通認識として共有し、ひとりひとりの役割を明確に。
今回あえて、伊勢丹や名店街のイベントの流れから紙媒体よりも電子媒体での発信を。
紙媒体はできるだけ少なく、協力店舗に置かせてもらうぐらいにしました。
↑札の辻の電光掲示板
https://www.isetan.mistore.jp/shizuoka/shops/other/other_shopnews/shopnews031.html
↑静岡伊勢丹アプリ
↑おまち大學のInstagram(1/29)
時間差もありつつ、様々な媒体で発信。
さらに、それらを組み合わせて発信したり。
おまち大學Instagramも少し発信に工夫を。
ー短期間でいろんな人に少しでも目に触れる為には?
①まずフォロワー数100を目標に。
🔽開設から4日で達成🙇♀️初期投稿(エンゲージ約50,リーチ約200,インプレッション約300)
ううう難しいな〜
🔽柚木Twitter
何回か引用RTや多くの方のRTいいねのおかげもありまして。いいねでも充分にフォロワーの他フォロワーにも表示されます。
(インプレッション約6000,エンゲージ約800)
②大きく4段階的別に投稿
📚まるで雑誌を読む感覚で📚
Ⓜ️見る人にとっての情報の丁寧さと優しさとは何かを考えて。
Ⓜ️そしてあえて短編的に前後関係が見え隠れ?するようにして、おまち大學へ誘導。
Ⓜ️また、目に触れる回数を増やすという目的もあり。(増やすなら課金して広告費を払えばいいですが、、予算はZEROなので笑)
模索模索。
でも
常に見る人を想像しなければですね。
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準備も徹底的にやりたかったのでツアー前日夜までツアーチームに提案しまくったり。スケジュールフォーマットを心配して勝手に作成したり笑時間足りず。
(でも提案がかなりうるさかったんじゃないかと反省)
✅ほとんどの詰め合わせはLINEグループで。お互いの即リスポンスもスピード感を保てたのではないかと。ツアーチームの仲間にはかなり無理なお願いもたくさん。再交渉時に、交渉とInstagram用に店舗写真をお願いしたり。
実際に足を運び、店舗に交渉したりしたのは彼らです❗️彼らが各店主を口説き倒してくれたからツアー組みができたのです。
柚木そこに関しては何もやってません🥴笑笑
ーーーーーーーーーーーーー
ツアーの最初と最後。参加者同士や参加者と店主。テーマと各者。それぞれの関係性の構築?を丁寧にやりたかったな。ツアーも詰める必要あり。またここに外国の方や障害のある方のことはきっと考えられてないだろなと。気遣いや優しさもまだまだです。
圧倒的に想像しなきゃだ。
わーい伸び代しかありませんね笑!❣️
と。まぁいろいろまだ書きたりませんが笑
とりあえず、これまで自分がつまづいたり、いろいろな方に迷惑かけたりしたこと。そこで得たもの。
失敗は失敗ではないのだと。
このつまづきとは、次への過程であるのだと学びました。でもそれを反省して生かせなきゃ、失敗止まりなんですね。。
山を越えたと思ったらまた山で。
でも私はゲームみたいでそれが好きで笑
いろんな方を巻き込みに巻き込み🙇♀️🙇♀️
🙇♀️TEAMで作り上げてく面白さを体感しました!!!いや〜いいね!!本当にありがとうございました。
伊勢丹の担当の方々や呉服町名店街のみなさまチームのみんな本当にありがとうございました。
さー次はどんな世界に出逢えるんだろう〜🤪🌻🦖🐈🌻❣️関わったすべてのみなさまありがとうございました!!
ここまで読んでくださりありがとうありがとうございます。明日も晴れなり☀️☀️
#柚木の思い出ぽろぽろ
#marina yunoki
以上!柚木真里奈からでした🌻
【社会における美術館の役割ってなんだろう】
〜社会における美術館の役割〜
博物館実習を終えて。柚木が学んだこと。
博物館が果たす使命は、大きく分けて3つある。博物館は資料を元にし、誰もが学ぶ事ができる生涯学習施設でもある。
1収集・保存
2調査・研究
3展示・教育
これら3つの領域は常に連動している事が重要である。この3つは連動していながらも矛盾やジレンマを抱えている。この3つを連動させて、美術館は本物の資料との出会いの機会を来場者に創っている。美術館の最大の強みはモノを持っているということである。
例えば静岡県立美術館では、ロダン館のある美術館やすぐれた日本絵画のある美術館。
元々美術館が所蔵するコレクションが美術館のアイデンティティにも繋がる。
さらに、コレクションは来館者や地域の人の愛着や誇りというものが生まれるのではないかと考える。
美術館の抱えるジレンマの1つに保存と展示のバランスの関係がある。作品を多くの人に観てもらいたい、いつ美術館に来ても作品が観れる状態にしたい、作品の価値や愛着の高まりに繋げるために展示をしたいと考えるとする。
しかし、期間中展示し続けるというのは作品の保存の観点から言うと作品が劣化したり、傷ついてしまったりするリスクが必ず存在する。
今の人にも過去の価値のある作品に観てほしいという考えはもちろん大事である。
保存と展示は両方のバランスを考えながら実施していかなければならない。
そこが難しいところだと、、
私達が今現在作品と向き合う事が可能なのは100年前の人々が大切に保存をしてくれたのではないかと思う。そういった過去から今の積み重ねを考えた時に、今を生きる私達に必要な1つの視点として未来のことである。10年、100年先の、未来の来館者や未来の静岡県民の事を考えたら、彼らにも過去から私達の今に至るまでの事を伝え、引き継いでいく役割も美術館に必要だと思う。また、今を生きる私もだ。
(じゃあ、私にできることってなんだろう、、)
作品の本質的な価値を見出す力。
それは、学芸員の日頃からの情報収集や調査・研究等が必要な要素ではないかと思う。
また今日はマスコミやメディアなどがパッケージを作り、企画し、全国を巡回する大規模な企画展が実施されている。これは美術館への観客動員数を増やし、事業の採算を合わせなければならない側面もある。また、大都市で開催されている国際展は費用がかかる。その為、他の美術館と割り勘をし、巡回形式をはかっているのだという。
最近では大都市のみでの大規模国際展が実施されている。それは都市と地方の人口問題も関係している。都市と地方では人口の元々の母集団の数も都市に大幅に偏ってしまっており、文化芸術も地域政策のような、都市への一極集中化が進んできてしまっている。来館者や国際展等から言えば、都市と地方の格差が生まれている。他もあるのかも
一方で作品保存の視点からは、作品を移動させるだけでも、リスクが高まってしまうため、限度を超えた移動は控えているという。そのため、今日では圧倒的に国際展の数も減少傾向にある。
何度も大好きな音楽を聞くように、何度も作品に会う事ができる。様々な鑑賞スタイルが求められている。一方で、鑑賞する側の主体的な観に、学びに行くという姿勢をどのように引き出すかも教育の視点からは必要だと考えた。
美術館には資料(ホンモノ)がある。
3柚木論
私は社会における美術館の役割として、美術館にはその地域に暮らす人々のアイデンティティや愛着、誇りがあると考える。
実際に実習を行い、現場のリアルな美術館について、知り、学び、さらにこの考えは深まった。
美術館のコレクションは非常に重要な鍵を持っているのではないかと考える。
美術館がコレクションをする価値は、過去と今と未来を繋げる事ができるということであると思う。また、コレクションには必ず作品が身にまとっている歴史やストーリーが存在する。
その歴史やストーリーは時間や空間を超えて、今を生きる私達は生で作品を通じて出会い、対面し、対話する事ができる。
これは大学の授業でロダン館にてギャラリートーク行う事から学んだ事である。ギャラリートークをきっかけとし、美術館が所有するコレクションにも目がいくようになった。ギャラリートークを実施する前と後でロダンの作品と自分との関係性も変化した。資料が持つ本物の力を体感したのと同時に静岡県立美術館にロダン館がコレクションとして所蔵されていたの事が大変誇りに感じた。今では愛着もある。
リアスアーク美術館の学芸員の方もお話して下さったなかでも、東日本大地震が起こった時の被災物の話もコレクションの常設展があったからこそ、でなければできなかった事であると思った。
知らない世界がまだまだある。
美術館はこれまで知らない世界や興味関心のない世界に出会うきっかけも作られている。人は自分が知らない世界、わからない世界に出逢った時に少しだけ心の豊かさにも繋がるのではないかと思う。自分の世界が少し広がる。興味関心を持った瞬間から、その物事は自分の目に飛び込んでくる。飛び込んできたところから、新たな展開が発生していくのではないかなと考える。
時代と共に変化する、人の価値観や社会環境の中で美術館にできることは何か、求められていることは何か、強みは何かを考え問い続けなければならない。また、そうした時代の変化の中で、美術館の役割も時代と共に変化していくのだと思う。作品もその時代時代に生きる人々の価値観のによって「名作」になっていくのではないかなと考えた。今や誰もが知っている「名作」は時を超えても「名作」であるように、コレクションを収蔵する美術館にも存在するであろう核となる大切にしている部分は変える必要はないと思う。変わらない美術館としての本質を変えない為に変わり続ける必要が、これからの美術館には求められていると考えた。
社会における美術館の役割とは何か。答えは、人それぞれだ。私は役割のひとつとして、美術館が存在する地域のアイデンティティにもなり得ると考える。また、より深く作品を通じて文化芸術に触れることで愛着や誇りにも繋がっていくのではないか。過去を知り、過去から学ぶ。そうして今をこれからをどう生きていくかを考え続ける場所にもなるのではないかと思う。
博物館、美術館は生涯学習の場でもある。人は死ぬまで一生学ぶ。美術部館の作品との出会いは日常に彩りを与えてくれる。
以上!❣
【2020.02.05 超大学成果報告会~まなびってなんだ?(2019文科省委託事業成果報告会)】
主催 NPO法人障がい児・者の学びを保障する会
2019夏季集中講義アートマネジメント各論で出会ったICHIRO太先生に誘われて。
授業で実際に体感し、衝撃を受けた「超大学」の成果報告会とディスカッションに参加してきました🌻てぃーのちゃんと🟡
障害の有無や年齢,立場,性を超えて1つのテーマに対してディスカッション🗣
もちろんファシリはいませんし、脱線しまくりますし、沈黙もあれば、めちゃくちゃ盛り上がってしまう時もある笑
答のない問いに対し、その場を共有する人と考え続ける場。であり、ひとりひとりの学びの場でもあるのかなと。
(🌞みんな本当これ体感してほしいです笑)
その場では確かに"学ぶ"が平等に存在している気がして。
"何かを得よう"という意識が個々人にあるような。
その場に存在する人と自分との共通点を発見したり、探したり。
「私だったらこう考える」と相手の立場になって想像し、考えたり。
それでも価値観も環境も違うから異なる意見ももちろんある。だからそこで人の話を聞かずに批判や否定するのではなく、いったんまずは認める。
その人の存在を認める。感じがしました🦖
✅立場やいろんなカテゴリーを超えて繋がっていく思考の面白さ。これはストパラの身体表現時や普段の話し合いにも感じてる。
(1人でも面白いけど他者も入る事でぐんっと世界が広がってく🌎)
ひとつのアイデア💡に刺激を受けて他者が触発され、別の新たなアイデアもしくはそれに繋がるアイデアが発生する。
そう。ぽんぽん現象‼️
ー誰かを好きになる。恋をする。
それは私にとっては自然現象ぐらい当たり前で普通で。自分にとっての当たり前って実は他者からすれば全然当たり前ではなくて。当たり前だったコトの"そもそも"の根本。
深い部分を掘り下げていくような感覚。
そこから分かるのは恋愛を超えて見えてくるもの。
思考が停止したり、急展開したり。
まるでジェットコースターみたいなんだ🎢
「普通」って? 「当たり前」って?なんだ。常識って?なんだ。どこから形成されたのだ。
大学に行くとその背景を学ぶ事ができる。
人はなぜ恋をするのだろうなぁ
ここでの学びは一方方向からの学びではなくて、人と人の関わりからの学び。
学びって日常にこそあるのだと思います。何気ない会話や何気ない行為からも。
そして何気なく日々を生きる街にも。
学びを発見しにいく。
そこには、どんな場面でも自分から面白がる姿勢が大切なんじゃないかなぁと。
きっとその姿勢の違いで同じ時間を過ごしても、インプットの質の差が生まれると思う。
常に自分で考え、対話し、実践。
そこには気づきや発見も含まれていて。
その繰り返し♻️
さらに他者の存在により別の世界へいくこともできる。
外に開くコツの1つに"立場を変える"🐥💡
なるほど...。どこか無意識に私達は生活していく上で立場という目には見えないモノに縛られているような。
いろんな人が関われるような関わりしろの仕組みをどのようにつくっていくか。
開いていくか。
優しさってなんだろうなぁ。
🌻学ぶこと。生きること。表現すること。
まとまりはありません!笑
が、とりあえず、、超大学のみなさま、いはら先生、関わった全てのみなさまありがとうございました!!
また遊びに行きますし、ぜひまた静岡にも遊びに来てください!!はやく会いたい!
居心地最高〜🌻わーい😊🙌
お好み焼きもカップケーキ🧁も最高に美味しかったです💓💓
ちなみによろしければ、夏季集中講義の荒い振り返り🔻🔻
【アートマネジメントってなんだろう】
https://marina12017007.hatenadiary.jp/entry/2019/10/10/100107
【2019.12.14(土)ストパラ@青葉シンボルロード】
この日私は午前中は🌸母校でクラウンになっていて。その後、みんなの所に重い瞼を擦り向かった🚃。今日が発表日であり、このメンバーでやるのが最終日であると思うと、ちょっぴり切なくて寂しい気持ちに。そんな事を思って、休日人で賑わうおまちを抜けて青葉シンボルロードでみんなを探した。
青葉シンボルロードを歩けば、そこでも本当に多くの友人にも久しぶりに会えて笑
うわぁ〜自分は幸せものだなって薄々、いや極々と実感していて笑
ありがたいなって。
で、信号でコービーに気づいて。みんなにも気づけてやっと会えた。
「あー遅かったね!お疲れ様ー」
とか声をかけてくれて。
あぁー自分はチームの一員なんだって自然に思えた。安心した。居心地がいいのだよね。
みんなと今日、舞台を作る。って考えると心が踊って、体も気づけば踊っていた〜いつもか笑
休憩中もずっとみんなでわちゃわちゃ。初めて会ったときの距離感もグッと縮まって。こんなに距離が縮まるなんて実は思ってもいなかった。願っていた部分はあるけど笑
言葉では会話はしない。仕草や単語、目線や表情で感じてわちゃわちゃするの。
好きなんだよねこういうの😌💕
きっと、心を開く必要があると思った。
心を開くって?心を開くとは、自分を出すことなのかなって。説明できないけど。。
他者に興味関心を持つ事なのかな。
興味関心を持っちゃうと柚木の場合はついつい話しかけちゃうみたいなんだけど🎅🏼
いつもどうしても気を張ってしまうけどあの空間や時間は本当に自由な気がした。
なんでもできそうな気がしてた。
このメンバーならいろんなコトが起こせる気もしたし、社会にへばり付いてる常識も越えて行けると本気で思っていた。
数回WSや稽古する内に作り上げてる当事者達がなんらかの境界を超えてるんだよねきっと。障害も年齢も立場もプロもアマもなんでも。
演じる者も。観る者も超えて。
そこにあるのは生の人。
人対人で行われるもの。
あの空間は確かに準備されてた。
でもあの空間の空気や雰囲気を創り上げるのはその場にいる人だった。人が空間を創っていた。
私は演じてる時いろんな事を思いながら自分を表現していた。
ステージが終わった舞台裏は本当に本当に感動した。グッときた。寒いはずのお外はなんてあったかいんだろう。心があたたかくなった。目頭が熱くなってるのも分かった。
終わった後は言葉ですぐに表現はできなかった。表現しようとしないほうがいい気がした。本番中もこのあたたかさを忘れちゃだめだとおもった。イルミネーションの煌めきだとか、メンバーの表情だとか、ライトの眩しさや匂いだとかを必死で目に焼き付けていた。
まだこの世界は人と人がいろんな境界を越えて繋がる可能性があるはず。そして、個々人が自分という存在をありのままに表現できる可能性も感じた。
誰もが自分らしくあることができて、誰にとっても優しくて、わくわくできるような社会になったらなって。
今、いろんなとこでぽつりぽつりとコトが起こってると思う。いつかそれが思いが重なって文化になってくのかなぁって思ったり思わなかったり。
人と人との出逢いや繋がることで、言葉では説明不可能な、より感情に訴えかけるコトに出逢える。言葉が必ずしも必要じゃないんだなぁ。
それでも言葉に残したい。言葉でも表現したい。
私は障害があるとないとかなんも関係ないんだなって心の底から今なら言える。
そう。結局は"人"なんだなって思った柚木でした。
なんてすんばらしい経験をしたんだろう。
なんてすんばらしい仲間に出会えたんだろう。
なんてすんばらしいのだろう世界は。
みんな本当に本当にありがとうありがとう。
私は私であっていいんだよ。って。
私は私であることができる場でもありました。居場所の様な感覚で、そりゃあもう居心地が良くて。
お互いがお互いの存在を認めるってのが大切なんだなって。
分かり合えないんだからひととひとはさ!認めるんじゃないのかな。
自分というひとりの人間らしさが個性として認めらる。
さいごに。
TEAMストパラのメンバーひとりひとり、ストパラ実行委員、観に来てくれたみなさま、関わったすべてのみなさま。本当に本当にありがとうございます!!
またみんなに会えたらなぁ😌💕大好きだぁぁぁ
もっともっと広がれ〜〜この輪環
【2019.12.14(土)清水文化桜🌸FESTIVAL】
今回は清水桜が丘高校の文化祭にスマイルが遊びに行きました〜🌻
〜友情や文化が地域を人を繋ぐ⁉️〜
清水桜が丘高校の生徒、特に文化部が主体となり、地域の人と協力し様々なブースを出店たり!彼らが普段、部活動でやってることを生徒同士だけでなく、来場者に紹介したりたり!!
これまでの清桜🌸の文化祭とはかなーり異なります!!笑(母校の方は分かるはず.)
地域に開かれつつあります。
まさか母校でクラウンスマイルをやる日が来るとは思いもよらなかった!!!
スマイルも"場"を創るお手伝いをさせていただきました!
以前、大学のフィールドワークで訪れた松崎高校文化祭の経験が役に立ったかもしれないな〜前例があるから先生もイメージ広がったみたいだったし😌
とりあえず、
スマイルの感想
みんな元気だった〜🌻
桜が丘高校とぱるちゃん限定コラボはそりゃあ買っちゃったよね〜💕文化部の活動を体験したり、みんなとおしゃべりしたり、遊んだり!!
楽しかったな❣
みなさま本当にありがとう!!青い春の1ページにそっとスマイルを🌻💕またね〜😆
柚木の感想
桜が丘高校のみなさま、足を運んでくださったり関わったすべてのみなさまありがとうございました!
文化部同士、運動部と文化部、生徒と来館者、学校と外部関係者。いろんな関係や繋がりが交差していたんじゃないかな。交差して、交わってみんなで作り上げていたと思う。
準備から当日まで色々と気付きや学びもあったと思います😌💕
誰かに自分たちが普段やっている活動、制作物を誰かに見てもらって、話をする。それってとーても大切なことだと思う。外から言われる事によってうちうちじゃ気づけない視点があると思う。
外に自分たちのモノを見せる時に、必要になってくるのは自分たちの"言葉"だと思う。
言葉が必要になってくる。自分の思いや考え、意図を伝える。それって学内や同質の人でやるとどうしても「これって知ってるよね」っていうそもそもの前提をかっ飛ばしてしまう気がしてて。
大学でもよくある気がする。てか、知っていて当たり前。知らないのは勉強不足って言われてしまう。そういうことじゃないのだけどね、、なんかこう、、、そもそもの共有が丁寧にないと、その後は全部変わってきちゃうんじゃないかなってのもありまして。
でも、それを外に伝えるってなった時は伝わる時もあれば伝わらない場合もある。だから、前提もひっくるめて言葉にする必要があると思う。
当時の自分と今の自分を見ても、この"言葉にする"って力が弱いなっていつもいつも痛感してしまうのです。。
自分の作品や活動について自分の言葉で他者に伝える。それって簡単にできそうで難しいんだよね。でも大切なことだと思う。作品や活動を見てもらうそういった機会ってなかなかないと思うから。文化祭をきっかけでもいい。
自分が大切にしていることはなんだろう。
って自分と対話してみよう。
考えてみよう。
当時はそういった機会はあまり無かった。。羨ましいというのもあるなきっと笑
しいて言うならば、大学受験するため、言葉にしていった時かな。
また、生徒でも先生でもない人との繋がりってのも非常に大切で。その人が、いつしか大切な存在になって、自分をどこかで気にかけてくれたり心配してくれたりするかもしれない。応援してくれて支えてくれたりしてくれるかけがえのない存在になるかもしれない。
人との出逢いだとかご縁から感じる、あたたかさやぬくもり、感動を体感して大切にしてほしいなって笑 それに気づけたらな〜笑
ゆっくり一歩一歩だね🐢重ねよう🌻
いつか感動が、人との繋がりがきみにとって生きるために大きな力になると思うから。
なんか上から目線でごめんなさい笑
とりあえず、みなさまありがとうありがとう!また遊びにWSでも行くと思う!またね!!❣
【ありのまま認めるとは】
柚木2年の時にNPO・ボランティア論の授業でNPO法人クリエイティブサポートレッツ代表久保田さんがレポートのお題として[ありのまま認めるとは]という問を。
以下それについての柚木2018の考えです。
ありのまま認めるとは
ありのままを認めるとは何かを自分なりに今回、改めて考え直した。大きく2通り、この行為が当てはまるのではないかと考えた。
1ーーーーーーーーーー
ありのままを認めるは、相手の好きな事、嫌いな事をもそのまま認め、否定しない事だと思った。
「そういった考え、見方もあるよね」
ここで否定するという事は、自分の中の価値観やものさしでその人を見ている気がする。
固定概念で個人を自分の考えられる範囲で枠にはめ込んでいこうとしている気がする。
この考えは意識的かもしれないし、無意識的なものかもしれない。
ジェンダー差別が例に挙げることが多いのかもしれない。
しかし、偏見や差別はもっと日常的にこびりついていると思う。自分にとって何気ない一言が実は相手を傷つけている場合だってある。
それは先程も述べたが、無意識・無自覚から来るのだと思う。何故これが生まれてしまうのかを考えたら、自分にとってはそれが当たり前の環境にいたからではないかと思う。
その考え、ことばが自分にとっても当たり前だったから、なぜ人を傷つけたのか、なぜ傷ついているのかも理解できないこともあるのではないかと思う。
無くすことは不可能だと思うし、無くならないと思う。しかし、減らすことは可能だと思う。
2ーーーーーーーーーー
私は大道芸ワールドカップIN静岡のノーマライゼーション推進室の実行委員を今年度から務めている。ノーマライゼーション推進室では大会の時は車椅子の方、盲導犬利用者の方、視覚障害をお持ちの方、聴覚障害をお持ちの方をエスコートする役割がある。また視覚障害を持つ方を対象にアーティストのパフォーマンスをリアルタイムで言葉に表現し伝えるFM実況がある。私はFM実況。
ここで私が分かったこと、初めて知った事、学んだ事は非常に多い。また、私は専門的に学んではいない。
障害を持つ個人も先天性、後天性がある。
また、視覚障害と言っても個人差がある。
障害をひとくくりにはできないという事。
「障害者ではない。障害を持っていても、私達は1個人として見て欲しい。」
個人によって障害のレベルは違うし、そもそも障害の種類が異なるし、同じ障害のくくりになっていても個人個人で異なる。
私がここで共に時間を共有した方々は、視覚障害の方、聴覚障害の方、盲導犬利用者の方、パーキンソン病の方、多発性硬化症の方だ。
ひとりひとり違う。だから、当然ひとりひとりとの接し方だって違ってくる。
これを知っていると知らないとでは自分が住んでいるまちの見え方が全く違ってくると実感した。
また、実際に自分が体験するとでも違ってくる。車椅子に乗ってみたり、アイマスクを付けたまま静岡の街中を歩いてみたり。その体験だけではない。私は昨年、左脚の前十字靭帯を断絶してしまい、靭帯を再建手術した。そして、しばらく入院し、日常では松葉杖の生活を送った。たかが怪我だったが、まちが大学がどれだけ健常者向けであったのを身をもって痛感した。ちょっとした段差や公共交通機関全てが「やっと」登れるぐらいだ。これは健常者であると当たり前だったから絶対に気づかなかった。
私は相互理解が必要ではないのかと思う。確かに、中にはそれは必要ない、迷惑だ。知られたくない。という声もある。その考えも理解はできる。しかし、知らなきゃ分からないし、誰かが教えてくれなければ分からないこともある。
知って、学んだからこそ、私は想像することができるのかもしれない。想像することができれば私にだってできることがあるはず。
そもそもまちは多様な人が行き交う場である。ということは、まちを作っているのは健常者だけではない。日本人だけでもない。しかもひとりひとりが目的も違えば考え方、価値観も違う。
障害をもっている人は目に見える人、見えない人も含めればたくさんいる。
だから、まちを考える時、社会的マイノリティに置かれがちな高齢者、子ども、目に見える、見えない障害を持つ方、外国人にも焦点を当てるべきだと思う。まだここには抜けてる人もたくさんいる。
それは政策とかからではない。
私という1個人のまちを形成する市民からの多様な人とまちを「シェアしている」という意識改革が必要だと思う。
実際に触れてみて分かることもある。
それまではわからない。わからないからこわい。これで終わらす事は簡単だ。これで終わらせたら、そこまでで思考は停止するだろう。
一生怖いで終わる。
ありのままを認めるとは、そもそもこの行為が目の前にいる相手のことを「知ろう」と自分からしない限り、この行為は発生しないのではないか。
目の前の相手の事を「知ろう」とする姿勢は「ありのままを認める」ということのひとつの要素なのではないかと思う。
ありのままを認める事は人によっては難しい事だと思う。自分とは違った考えや価値観を変えられてしまうのは誰だって最初は抵抗があるのだと思う。しかしながら、その変動こそがアートの変動に似ている。だから、アートの力で社会に、まちに、人の心を動かすことができるのではないかと私は考える。アートの持つ力を強く信じている。アートは必ず、弱い立場に置かれてしまう多く人の味方であり、寄り添う。
【FM実況】
視覚に障がいがある方や、混雑でパフォーマンスが見られない方々を対象。🌟視覚の障がいの程度には、全盲の方や弱視、視野狭窄等があると知った。
また、先天性か中と障がいによっても個人差がある。
参考資料によると
「病気や事故などで障がい(中途障がい)の方は、障がいを受けるまでに視覚により獲得した記憶から形や色などをイメージできる。」
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普段は自分は何も不自由なく歩ける。それは''見えている''から。
でも、これが目の見えない、車いす、松葉杖等となると話は違ってくる。
健常者と言われる人にとっては本当に対したことない段差でも後者の方々からすれば全く対した事ではない。
だから、エスコートする側は、何があるのか、この道はどんな道なのかを伝え、何を彼らが必要としていて、何に困っているのか聞き出す。目線は同じ高さ。伝える為には、そこが何なのかをいつもよりも【よく見る】必要がある。
そして、常に状況をコトバにし、情報としてインプット(認知)していく事が求められる。
笑顔でいながらも緊張感があるなと。
さと今年の大道芸も盛り上がっていきましょう!